- 医療費控除とは
- 一年間に支払った医療費が10万円以上、または総所得の5%を超える場合に、所得控除として税金の還付、軽減の対象となる制度のことです。お住まいの自治体へご確認下さい。 整体師の首都で、最大の都市でもある。大西洋に面し、アンゴラの主要港であると共に行政の中心でもある。ほぼ300万人の人口(2007年)を擁し、ルアンダ州の州都でもある。 産業には加工食品、飲料、織物、セメントや他の建築資材、プラスチック製品、金物、タバコ、靴の生産が含まれる。近郊で産する石油の精製所があるが、この施設は内戦のあいだ、繰り返し被害を受けた。 粗大ごみにはすばらしい天然の港があり、主要な輸出品目にはコーヒー、綿、砂糖、ダイヤモンド、鉄、塩がある。しかしルアンダの経済はアンゴラ国内で進行中の軍事衝突によってひどく混乱し続けている。 ルアンダの住人は主にアフリカ系民族であり、 住民にはオビンブンドゥ族、キンブンドゥ族、コンゴ族が含まれる。アンゴラの公用語はポルトガル語であるが、たくさんのバントゥー語に関連した土着の言語が話されている。ヨーロッパ系の住民はごくわずかである。なお、小惑星(1431)のルアンダ (小惑星)は、ルアンダに因んで命名された。 ルアンダは1575年にサン・パウロ・デ・ルアンダ (Sao Paulo de Luanda) としてノヴァイスの率いるポルトガル人によって植民され、アフリカ黒人奴隷の重要な輸出港となった。1641年オランダの西インド会社軍によって占領されたが、1648年にはブラジル植民地軍によって奪回されている。奴隷供給源の喪失はブラジル植民地にとって大打撃だったからである。 ブラジルとルアンダの結びつきは強く、1822年のポルトガルからのブラジル帝国独立時にはポルトガル領アンゴラをブラジルの植民地とする動きさえあったが、1888年の黄金法制定によるブラジルにおける奴隷貿易停止によって関係は消滅した。 不用品回収からアンゴラはポルトガル軍と独立戦争を戦い、1975年のアンゴラ独立後、多くのポルトガル人が町から去り、アンゴラ独立戦争時に革命軍を支援したキューバ人が取って代わった。キューバ人の多くは兵士であった。 ルアンダにはローマ・カトリックの大司教座がおかれている。またアンゴラ大学、17世紀に建てられた砦であるサン・ミゲル要塞、旧ポルトガル総督府などがある。 東アフリカに位置する国家ウガンダの首都。人口120万8544人(2002年)。ウガンダ最大の都市で、ビクトリア湖の北岸、標高1300メートルにある。なお、ビクトリア湖の湖面自体が標高1134mと高い。ほぼ赤道直下(北緯0度19分)に位置する。経度は東経32度35分。 赤道直下であるため、ケッペンの気候区分では夏に少雨となるサバナ気候となるが、標高が高いため、高温とはならない。1月の平均気温は23.3℃、7月の平均気温は21.1度である。年間降水量は1178mm。このため緑豊かな丘陵に沿って家屋が点在するという「アフリカらしくない」都市となった。中心街には20階建て以上の高層ビルが林立する。 首都として政治の中心であるだけでなく、商業、製造業、輸送業の中核として機能している。カンパラのSt.Balikuddembe市場は、東アフリカでも随一の露天市場であり、市のある日には10万人以上の人出がある。主な製造業は家具・機械部品。世界第9位の生産量を誇るコーヒーのほか、綿、茶、砂糖を海外に輸出する拠点である。ウガンダの都市人口率は12%と非常に低いため、カンパラ以外に10万人を超える人口を有する都市はグル(11万人)だけである。 西に35km離れたエンテベにはエンテベ国際空港が、10km離れたビクトリア湖の湖岸にはポート・ベル港がある。鉄道も運営されているが、貨物輸送が主力である。 19世紀、カンパラは象牙交易を進めるアラブ=スワヒリ商人の隊商ルートの深部に位置していた。象牙運搬人の内の奴隷たちはモンバサから現在のタンザニア沖に浮かぶザンジバルへ積み出されていった。カンパラは1896年にイギリスの保護領となったブガンダ王国の中央部に位置し、首都であった。その後、イギリスの探検家で後に植民地行政官となったフレデリック・ルガードによって1890年に築かれた砦の周囲に広がった。この砦はケニアを活動の中心とした帝国イギリス東アフリカ会社 (Imperial British East Africa Company, IBEA) の権益を護るためのものである。1893年、同社は権益をイギリス政府に委譲した。 1962年にイギリス連邦内の自治領としてウガンダが独立すると、それまでのイギリス政庁があったエンテベに代わって首都となった。このとき大統領となったのはブガンダ王のムテサ2世だった。市街地のほとんどは1979年のイディ・アミン政権の転覆とその後の内戦で破壊された。復興のために都市インフラはかなり回復したものの、急激な人口増加とそれに伴う慢性的な交通渋滞、経済の建て直しなどが課題である。 カンパラ市内には東アフリカ開発銀行と総合大学であるマケレレ大学がある。東アフリカ開発銀行は、1967年にウガンダとケニア、タンザニアの3カ国が連邦国家を設立する目的で発足させた東アフリカ共同体 (EAC) の下部組織である。なお、やはり東アフリカ共同体の下部組織である東アフリカ鉄道もカンパラ、ナイロビ間をはじめ、3カ国の国内に多数の路線を運営している。 ナイル川河畔の交通の要衝として中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じてイスラム世界における学術、文化、経済の中心都市でありつづけた中東屈指の大都市である。現在においてもカイロ首都圏(ナイル河西岸のギーザ市含む)の人口は1525万人(2004年)を数え、アフリカ大陸、中東地域いずれにおいても最大の人口を有する。 エジプトの乾燥した大地にナイル川が形作った肥沃なデルタ地帯のほぼ中央、要の位置にあたり、イスラム帝国が7世紀にエジプトを征服したとき、征服者アラブ人の住まう軍営都市(ミスル)が置かれて以来のエジプトの首府である。日本語でよく知られる都市名のカイロは、英語名の Cairo に由来しており、現地語であるアラビア語ではカーヒラ(al-Q?hira; 現代エジプト方言ではカーヘラ)という。しかし、現在でもミスル(misr; 現代エジプト方言ではマスル)という通称がよく用いられる。ミスルの名は、この町を首府としてきたこの地域の地名としてアラビア語に取り入れられ、アラビア語で「エジプト」のことをもミスルと呼ぶようになっている。 カイロの中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギーザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。 ナイル川は平坦な砂漠を流れる河川ではなく、東はアフリカ大地溝帯につらなる山脈によって紅海とさえぎられている。カイロ周辺では、南東に約100 km離れたガララアルババリーヤ山 (1274m) などが際立つ。ナイル川の西側も高地であり、ナイル川が流路を変える可能性は低い。 ナイル川の水の恵みを受けているのは南北に連なる幅15〜20 kmの細長い地域だけで、カイロ市外の南方10km まではこのような風景が続く。カイロは二つの高地が終わるちょうど扇状地の扇頂に相当する位置に広がる。このため、カイロ自体の標高は15mから60m程度だが、南東方向に2km進むだけで150mまで高度が上がる。 カイロの位置は、北緯30度03分、東経31度15分であり、主要都市では中華人民共和国のウーハンや、アメリカ合衆国のヒューストンやニューオーリンズと同じ緯度である。経度ではロシア連邦のサンクトペテルブルクやウクライナのキエフと近い。年間を通して南風が吹き、特に4月から5月にかけてはハムシーンと呼ばれる砂嵐が続く。年平均降水量は26.7 mmと低い。カイロがアフリカ一の大都市、砂漠気候に位置する都市として最大の都市となりえたのはまさにナイルの恵みのためである。 1月の平均気温は14.0度、7月は28.0度。ハムシーンの季節を除けば大気が乾燥していることもあって過ごしやすい。